岩津ねぎの歴史は古く、『朝来誌』(明治36年)によると生野銀山が栄えた江戸時代後期の享和3年(1803年)頃、鉱山労働者の冬季野菜として銀山奉行の役人が京都の九条ねぎを持ち帰り栽培させたのが始まりと伝えられています。
それまでの岩津ねぎは柔らかすぎて日持ちが悪く、見た目と風味が落ちる「分けつ」しやすい性質であったため昭和の初めに関東の千住ねぎと交雑育種しました。その後も品種改良が進められ現在の品質にまで高められました。
昭和21年(1946年)、農家を中心に「岩津葱出荷組合」が設立されて以降は、農家の方が中心となって販路を開拓。特産品としてのブランド化への努力をたゆまず行ってきました。まだインターネットのなかった時代、岩津ねぎの人気は口コミなどから少しずつ広がりました。
しかし人気が出始めるとともに品質管理の課題が出たり、偽物を売りつける業者が出始めたため、ブランドを守るため平成初期までの岩津ねぎには「赤札」と呼ばれる表示札をネギ一束ごとに付けるルールが設けられました。現在では2003年に発足した朝来町岩津ねぎ生産組合(現・朝来市岩津ねぎ生産組合)が“岩津ねぎ”の名を商標登録し、赤札も現在の紙タグに変更し品質の管理に努めています。
※もし農は岩津ねぎ生産組合の組合員として岩津ねぎの品質向上に取り組んでいます。