もしも都会の女子社員が日本で園を開いたら。

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「チャッキー!」

同僚の知保に呼ばれ、千晶はにらめっこしていたデスクのノートパソコンから顔を上げた。画面にはゴールデンウィーク中に出かけた宮島旅行のデジカメ写真と、その前に片づけきれなかった営業先のリストが映し出されている。

「知保、なに~」

「なによそのしかめっ面。部長が呼んでるよ。会議室」

(部長が、私を、呼んでいる?)

そのとき千晶の脳裏に浮かんだのは、まさに今、目の前で格闘していたリストの未訪問営業先だった。

(やばい、私また、何かやらかしたかな・・・・・・)

O県の市内に本社を構える、中堅の広告会社。従業員300名、設立10年あまり。県外にも九州、関西、甲信越に営業所をかかえる。O県で生まれ育った千晶は地元のこの会社に営業職として入社し、今年で3年目を迎える。

業績は決して悪くない。しかし生来どこか抜けているところがあり、仕事のヘマもこれまで何度か起こしてきた。一度大きなミスを起こしたとき、大目玉をくらったのが部長だった。その部長に呼ばれたとあって、千晶は一瞬、目の前が真っ暗になる思いがした。

(どどど、どうしようどうしよう・・・・・・)

部長をいたずらに待たせるとヤバい。千晶は急いで手帳だけ持ち会議室へと向かった。途中、社内用のスリッパのままだったことに気づき、慌てて引き返してパンプスに履き替える。

「し、失礼します・・・・・・」

おそるおそる会議室の扉を開くと、中には部長の他に取締役の姿も見えた。

これはただごとではない。まさか・・・・・・クビ?千晶はいよいよ生きた心地がしなかった。

「ああ、来たね。ちょっとそこにかけてくれたまえ」

部長に席をすすめられ、千晶は軽く会釈をして席に座った。部長の態度や口調を見る限り、怒っている雰囲気はない。とはいえ、滅多に顔を合わせない取締役がいる以上、何か深刻な話であることは間違いない。これからいったい何を言われるのか。千晶は緊張のあまり、ごくりと唾を飲んだ。その音が会議室中に響き、千晶の心臓はさらにぎゅっと縮まった。

「じつはね、今日、君を呼んだのはほかでもない―」

席に座った千晶を見届けると、取締役は重い沈黙を破るかのように、静かに口を開いた。

「―君に、農園事業をやってもらいたい」

 

のうえんじぎょう?

 

千晶は、取締役が何を言っているのか理解できなかった。混乱する千晶の様子を察したのか、部長が補足するように話を始めた。

「じつはね、わが社の新規事業プロジェクトとして一次産業に着手することが先日決議されたんだ。そのプロジェクトの総責任者として、君に働いてもらいたい」

「そそそ、そんな!無理です!だって私、農業なんてしたことないです!」

「もちろん、君一人に任せるつもりはない。社内の人間は適宜自由に巻き込んでもらってかまわない。君が担当している業務も順次他の社員に引き継ぎ、このプロジェクトを最優先に取り組んでほしい」

「いいい!いや無理です無理です!」

必死で辞退しようとする千晶を前に、部長と取締役はまるで哀れな子犬を見るような切ない表情でこう告げた。

「・・・・・・すまないが、これは決まったことなんだ。業務命令として受けとってくれたまえ」

それから千晶は今後の段取りに関する資料を手渡され、退室を許された。会議室を出たとき、千晶は生まれて初めて廊下がぐにゃりと歪んで見える体験をした。おそらくデスクに戻る途中何人かの同僚に声をかけられたはずだが、千晶の耳には一切届いていない。

 

農園事業プロジェクトの責任者になる。

 

会議室で受けた新たな辞令を、千晶は実感できずにいた。

これまでも営業メンバーのリーダーや、イベントプロモーションのディレクターをしたことはある。だが会社の新しい事業を一任された経験は一度もない。それもよりによって、広告業とは全く異なる農園事業の総責任者。なに?これってナニ?なぜ私?なぜ農業?千晶の頭には新規事業という重責以前に、理解不能の疑問符が嵐のように乱れ渦巻いていた。

力なくデスクの椅子にへたっと腰かけ、精神崩壊者のような虚ろな瞳でパソコンの画面を見つめていた千晶だが、突然、バッグからポーチを取り出したかと思うとそのまま一目散にトイレへ向かった。トイレに駆け込むと、まず用を足し、トイレットペーパーを三角に折りたたみ、いつもより念入りに手を洗い、いつもより入念に歯磨きとうがいをし、いつもより丁寧にメイクを直した。その後鏡に映る自分を見つめ、目を閉じて三回深呼吸をし、そのままぶつぶつ何かを呟きながらデスクに戻った。

(・・・・・・れは夢だ。これは夢だ。これは夢だ・・・・・・)

デスクに着くと、しかしそこには無情にも、さきほど部長から渡された資料がちゃんと置いてあった。農地に行く日付、住所と詳細な地図、その表紙には、社外秘・重要の赤い印鑑・・・・・・。

 

夢じゃ、ないのね・・・・・・

 

人は、受け入れがたい現実を突きつけられると、気が触れたように力なく笑うという。

このときの千晶が、まさにそれであった。

 

 

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「・・・・・・ただいま・・・・・・」

夜、帰宅した千晶の真っ青な顔を見て、母親が目をむいて言い放った。

「チャッキー!なにその顔?!あんたまた会社クビになったの?!」

母のその声に反応し、庭で飼っている愛犬のチャッキーが、アオン!と鳴く。

母の言葉に便乗し、ビールを飲んでいた父も千晶に絡む。

「なんだチャッキー、クビか?そうか、じゃあまぁとりあえず飲むか」

アオン!

「クビになんてなってないよ!けど・・・・・・そっちのほうがまだマシかも」

父に差し出されたグラスを受け取り、千晶は力なくテーブルについた。

「じつは今日、会社で新規事業の責任者になれって言われた」

「え?なにそれ?それってもしかして出世ってやつじゃない?」

台所に戻った母が、喜んでいるのか驚いているのかよくわからない音程で喋りながら料理をよそい、千晶に渡す。今夜の夕食は肉じゃがと(ビールのおつまみの)枝豆。よりによって肉じゃが。少しセンチメンタルになっているのか、こんな日に“おふくろの味”の代表みたいな料理を出され、千晶は無性に情けなくて泣きたい気持ちにかられた。

「そっかー、チャッキー出世かぁ。俺はなかったなぁ。もう俺は安心して引退できるなー」

「しかしねぇ。この子にそんな大役をねぇ。あんたの会社、どうかしたんじゃない?」

「母さん、それ言い過ぎ」

「だってねぇ。あんた、これまでいっこもやり遂げたことないじゃない?また中途半端で投げ出しちゃったら、それこそクビよ?」

「中途半端かぁ。俺にも経験あるなぁ。やっぱり血は争えんなー」

「もー・・・・・・うるさいなぁ」

その後、両親にひとしきり説教され茶化されつつ夕食を終えた千晶は、酔い覚ましがてら庭に出てチャッキーとじゃれた。

チャッキーは、千晶が高校生のときに拾った捨て犬だった。

父と母は揃って「飼えっこない」と反対したが、なぜか千晶は諦めきれず、二人の反対を見事押し切ってチャッキーを家族にした。振り返れば、両親に本気で反抗したのはこのとき一度きりだったとも思う。その後は千晶より両親がチャッキーを可愛がるようになったし、千晶は秘かに、あのときのとこを小さな誇りに思っている。唯一困るのは、いつのまにか両親が犬の名前を勝手に「チャッキー」と改名(もとは千晶が別の名前をつけていた)してしまったこと、そして「千晶」と「チャッキー」の音が似ているため犬が反応して鳴き、ついには自分のあだ名もチャッキーになってしまったことだ。高校卒業のとき、千晶は意を決して両親に「犬の名前をいま一度変えてほしい」と直談判したが、二人に揃って「だってそっくりだものねぇ」の一言で却下され、以来そのままになっている。

「チャッキーよ。あたしゃとんでもないことになっちまったよ」

ちびまる子ふうにぼやいてみても現実は変わらず、チャッキーは千晶に頭をなでられるのがよほど気持ちいいのか、だらしないくらい仰向けに寝そべり、アオン!と小さく鳴いた。

「あんたはいいね。お気楽で」

アオン!

「・・・・・・私にできるんだろうか・・・・・・?」

アオン!

 

無邪気なチャッキーを撫でながら、千晶は次第に自分の肩に背負ったミッションの重さを感じずにはいられなかった。

 

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数日後。

この日千晶は朝から車を出し、会社へ寄らずそのまま指定の農地へ向かった。

市内からバイパスに乗り、約40分。大きな川を越えたあたりから風景は一気にのどかになり、目的地に着くころにはあたり一面田畑だらけになった。

県道から横道に曲がると、そこからは文字通りの農道。アスファルトで舗装されているはずもなく、小石が散乱するでこぼこ道が曲がりくねって続いている。千晶は大切なマイカーを傷つけまいと、自分運転史上かつてないほどの最徐行で凹凸の激しい農道をのろのろと進んだ。

必死に前方を見つめ運転に集中する千晶の横には、助手席に置かれた一冊の本が小刻みに跳ねている。

辞令が下りた次の日、千晶は「とりあえず勉強」と駅の大きな書店へ行き、農業に関する本を数冊購入した。

千晶は読書家ではなかったが、中学生のころから斜め読みだけは得意だった。そのため、何か新しいことを始めるときはまず関連書籍をまとめて買い、一気に斜め読みして頭に残った文言だけ後でゆっくり読み返し、知識として蓄積していく手法を自然と行うようになっていた。今回もその手法でとっかかりをつかもうと試みたのだが、千晶はその中で、『農村起業家になる』(曽根原久司 著・日本経済新聞出版社・2012)という本に書かれていたある一節に目がとまった。

そこには、「思い立った日が起業の日である」として、次のようなことが書かれてある。

―重要なのは、何事も第一歩を踏み出すことである。そして、第一歩を踏み出したという認識を心に明確に刻むことである。(中略)私はさまざまな農村起業のサポートをする中で、最初に起業のスタートをはっきり認識した人と、しなかった人の間で、将来大きな違いが出てくるのを見てきた。だからこそ、「まず、始めるべし」の鉄則を肝に銘じるべきなのである。

頭では理解できる。だが千晶は「じゃあ、自分の起業日っていつだろう?」というのが、うまくイメージできないでいた。

もちろん、会社から辞令を受けた日が起業日と言える。その次の日、書店で書籍を買った日と定めてもいい。しかし千晶はそのいずれも心から「起業日」と認識できずにいた。自分が鍬を持って畑を耕すイメージも全然想像がつかないし、それで会社に利益をもたらすビジョンもない。それどころか逆に、心のどこかではすぐ自分は担当から外されて別の誰かがやってくれるのではないかという気持ちさえあった。

(こんなんで、本当につとまるのかしら・・・・・・)

助手席で小刻みに跳ねるその本を横目でちらりと見て、千晶はここ数日何度もついている深いため息をはあーっと漏らした。

 

資料の地図に示された場所に着いたとき、千晶は文字通り「愕然と」した。

何も無い。というより、農地がない。

そこには、古びてところどころ傷んだ小さな小屋が2つほどあるだけで、あとは竹や雑草の生い茂った荒れ地が山の斜面に向かって広がっていた。

「な、なにこれ・・・・・・」

千晶の中に雀の涙ほども無かった戦意が無情なまでに喪失していくのが、自分でもわかった。あまりにも無謀すぎる。絶対自分には無理。千晶の脳裏には、かつて日本史の授業で習った北海道の屯田兵の姿が浮かんだ。しかし哀れなことに、このとき千晶の遺伝子はよほど自己防衛本能が働いていたのであろう、思考回路が完全に現実逃避モードに突入していたため屯田兵はすぐに頭から消えて「北海道」だけ残り、北海道のカニっておいしいだろうな、と農業とは全く関わりのない想像にはばたこうとしていた。

そのとき、2軒ある小屋の奥の方から大きな物音がした。

がたん!

まさに今、北海道のズワイガニの身を食べんと夢想していた千晶は、その音によって一気に現実に引き戻されたばかりか、心臓が飛び出るのではないかと思うくらい驚いた。

がたん、がたっ、がたっ。物音はなおも聞こえてくる。

・・・・・・まさか、イノシシ?いや、もしかして・・・・・・クマ?いやいやいや、まさか逃亡中の脱獄犯・・・・・・?

千晶は恐ろしさのあまり、身動きもできず立ちすくんだ。どうやら物音は小屋の入り口あたりから聞こえてくる。何者かが外に出ようとしているに違いない。千晶は生まれて初めて走馬灯が頭を駆け巡るのを見た。しかし浮かんだのは数日前に食べた肉じゃがと枝豆だった。せめて死ぬ前に北海道のカニを食べたかった・・・・・・千晶はそのことを心から悔やんだ。

小屋から姿を現したのは、派手なオレンジ色のつなぎに身を包んだ初老の男性であった。

「くそっ・・・・・・立てつけ悪いのぅ」

見た目は40代か50代。やや小柄な体格ではあるが、ネコ科の動物のように引き締まった体をしているのがつなぎの上からでもわかる。髪は理髪店ではなく、街のヘアサロンでカットされたかのような今風の短髪。表情はコワモテ。なんとなく「ちょいワル」を連想させるセンスと、威厳のような雰囲気さえ漂わせている。

男と千晶の目が合った。互いに見つめること数秒。月9なら一番の見せ場にもなっただろうが、千晶はいまだ「金縛り状態」のままであった。

「おぅ、来たか」

男はそれだけ言うと、ふたたび作業に戻った。その言葉を頭の中で反芻し、千晶はようやくその意味に思い当たった。確認のため、部長から渡された資料に目を通してみる。そこには千晶が(かろうじて)記憶していたとおり、「当日、現地に作業員を1名派遣」と書かれていた。

「あ、あの」

千晶は裏返ってしまった声をかろうじて振り絞り、男に声をかけた。男が、なんや?という感じで振り返る。

「あの、本日は、よろしく、お、お願いいたします。あ、わわ私、千晶と申します」

男はしばらく千晶を眺めた後、こっちへ来い、というそぶりであごをしゃくった。千晶もとりあえず他にどうすることもできないため、男の指示に従った。ついていく途中、「あ、あの・・・・・・お名前は」と訊いてみたが男は答えてくれなかった。

千晶が連れていかれたのは、雑草が生い茂る荒れ地の一角だった。男はそこで立ち止まり、ここ、ここ、という仕草で地面の雑草を指さした。

「あっ、は、はい・・・・・・」

男の言われるままにおそるおそる地面を覗いてみたが、周りと同じような雑草が生えているほか、とくに何も見当たらなかった。

「あの・・・・・・ここがどうかしたんですか・・・・・・?」

「もっと近くで、匂いをかいでみぃ」

そう言われて、千晶はためらいながらもしぶしぶ匂いを確かめた。嫌な臭いはしない。それどころか、すがすがしい香りがかすかにする。どこかで嗅いだことのある匂い。これは・・・・・・。

「・・・・・・ミントや」

男が後ろからそう言った。そうだ。これはミントの香りだ。

「・・・・・・悲惨なもんやろう。ここで唯一、野菜と呼べるようなものや。それも前の畑の持ち主が植えたのかどうかもわからん。どっかから種が来て、勝手に自生したんかもな」

そこは確かに、よく見る畑のような痕跡が一切見られない場所だった。どちらかと言うと、畑へ続く通り道の脇にそっと生えている感じ。そのとき千晶はようやく気づいた。よく見るとミントの生えているあたりの先に、かろうじて畑の名残を思わせる地形が見える。

「―耕作放棄地いうんは、多かれ少なかれみんなこうなる」

耕作放棄地。

2012年現在、日本にある耕作放棄地は約40万ヘクタール、東京都の面積の2倍はあるといわれている。そのほとんどが高齢化による人手不足と経営難によるリタイヤが原因である。千晶もニュースや新聞でその言葉を耳にしたことはあったが、いま目の前に広がるそれは想像以上に悲惨で深刻なものとして彼女の目に映った。

―ここは、棄てられた畑なんだ。

その事実は千晶に大きなショックを与えた。それまでの千晶にとって「耕作放棄地」という単語は、「ギリシャ財政難」や「インカ帝国滅亡」と同じ、自分とは関わりのないどこか遠いところの話だった。しかし自分が住む街からたった車で小1時間走ったところにも放棄された田畑が存在する。その事実を知った今、千晶は大きなショックとともに、言いようのない寂しさを感じずにはいられなかった。

「この畑、棄てられたんですね・・・・・・」

「あほ、そんなんちゃうわ」

やや感傷的に呟いた千晶にツッコむかのように、男は間髪いれずそう言った。

「たまたまここの持ち主が切り盛りできんくなって眠らしてるだけや」

さっき自分で耕作放棄地って言ったくせに―千晶はむっとしつつも、内心ほっとした。

「しかし本当に棄てられた畑が、日本のあっちこっちにあるのは確かや」

実際、日本各地にある耕作放棄地のすべてがどんな状態にあるのか、そのときの千晶には想像もつかなかった。しかしそれでも、事態の深刻さだけは素人ながらに感じていた。かつてこの畑でも、誰かが土を耕し、種を植え、明日の天気を気にしながら作物を育てていたのだろう。それが今では見る影もない。

これまで都会と呼ばれる場所で生活してきた。その間も、日本の農地は問題を抱え続けていた。何かできることはないか、という気持ちはある。が、今さらながらに現状を知ってショックを受けているような自分に、はたしてできることなんてあるのだろうか?千晶は自らの不安がより一層膨れ上がるのを感じずにはいられなかった。

「で、チャッキーよ」

ふいに男にあだ名を呼ばれ、千晶は我に返って驚いた。

「は、はい!あれ?なななんで私のことチャッキーって知っているんですか?!」

「なんでって、さっき自分で言うてたやろ」

しまった!緊張して声が裏返っちゃったんだ・・・・・・。さきほどの自己紹介の様子を思い出し、千晶は恥ずかしさのあまり耳を真っ赤にしてうつむいた。男は、そんな千晶の心情を知ってか知らずか、構わず話を進める。

「ここ、何植えよか?」

「え?!それって、私が決めるんですか?!」

「当たり前やろ。園長はチャッキーやからな」

(そんな、突然言われても・・・・・・)千晶はしどろもどろしながら、改めて荒れ果てた畑を見渡した。植えるもなにも、まずこの土地を畑にしなきゃならないだろうし、仮に畑になったところで、この地域の気候で栽培できる作物なんて皆目見当がつかない・・・・・・ん~でも何も答えないと怒られそうで怖いな〜・・・・・・植えるものウエルモノ・・・・・・。

「・・・・・・え、枝豆なんていかがでしょうか・・・・・・?」

とっさに、千晶は頭に浮かんだ枝豆を提案した。先日、肉じゃがと一緒に実家の食卓に並んだ、あの枝豆だ。

「枝豆?」

「あ、あはは!なんて!意味ないですよね!もっと別のお野菜のほうがいいですよね!」

すぐに千晶は、取り繕うかのように自分の提案を否定した。しかし男は意外にも、怒らず、呆れず、笑うこともなく、まんざらでもない様子で思案にふけっている。

「なるほど。枝豆か」

そう呟くやいなや、男はくるっと踵を返し車を停めていた方へ歩き出した。

「よっしゃ、いくで。ついて来い」

「え?行くって、どこ行くんですか?」

慌てて問いかける千晶に対し、男は歩きながら振りむき、にやっと不敵な笑みを浮かべた。

「カミの、いるところや」

 

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兵庫県、和田山。 県中北部に位置するこの土地は、古くは但馬(たじま)と呼ばれ、四方を豊かな森林と山に囲まれている。その独特な風土から質の良い産物を多く産出することで知られ、とくに和田山周辺に広がる田園と湿原は渡り鳥をはじめ多種多様の生態系を育んでいる。その貴重な環境から、2012年、水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約「ラムサール条約」に指定、登録されたのは記憶に新しい。

謎の作業員に連れられ、車で走ること2時間。千晶はこの和田山にいた。

車中、千晶は今一度謎の作業員の名前を訊いたが、「わしはただの作業員」と答えるだけでいっこうに名乗ってくれない。その理由を千晶はずっと後になって知るのだが、このときの彼女はそれ以上追求する勇気もなく、便宜上彼を「作業員さん」と呼ぶことにした。

和田山に入ってすぐ、謎の作業員は一軒のコンビニに立ち寄り、そこで誰かと電話で話した。トイレから戻った千晶の耳に聞こえたのは「カミのおじちゃん」という名。謎の作業員が言った「カミ」とは、どうやらその人のことであるらしい。

「あの、今から会いに行くのがその、カミ・・・・・・のおじちゃん、なんですか?」

再び出発した車中で、謎の作業員は千晶の問いに軽く肯いた。

「チャッキーは農業ド素人やからな。まずは先輩の話を聴いたらええ」

農業ド素人と図星を突かれ千晶は一瞬むっとしたが、この短い時間で見抜かれるほど、自分は未熟に見えるんだな・・・・・・と少し落ち込んだ。同時に、「素人」と言い切ったものの、それを受け止めたうえで迅速に対処する謎の作業員の決断力と行動力に、内心驚きもしていた。

やがて車は一軒の民家に到着した。庭には温厚そうな老夫婦がいて、奥さんらしき人が気さくに手を振っている。ご主人も、手こそ振っていないが笑顔でこちらを向いていた。あの人が「カミのおじちゃん」だろうか?そのことを確認する間もなく、謎の作業員は車を降りて2人のもとへ歩いていった。千晶も慌ててそれに続く。

「さっき話したチャッキーや。ちょっといろいろ教えたってくれ」

「そうでっか。チャッキーさん、はじめまして。田中言います」

「カミのおじちゃん、おばちゃん」と謎の作業員が呼ぶ2人は、田中正利さん・土木枝(ときえ)さん夫妻。長年農業に携わる、いわばベテランであった。かつて玉ねぎの苗に関する発表で農林水産大臣賞を受賞した実績の持ち主だが、本人はいたって温厚で、農業についてまったく知らない千晶を相手にしても素朴で丁寧な受け答えをしてくれた。

「なるほど、枝豆ですか」

「そうや。それでな、例のあの豆はどうかと思ってな」

謎の作業員は、さきほど千晶が口にした「枝豆を植えたい」件を切り出した。

「わかりました。チャッキーさん、楽しみに待っといてください。すぐに種を手配しますわ」

「カミのおじちゃん」こと田中さんはそう言ってにこりと笑う。苦し紛れの思いつきで枝豆を挙げた手前、千晶は一瞬止めようかと思ったが、謎の作業員も田中さんも何か企みを持っているかのようにうなずきあっている。何か考えあってのことだろう。千晶は思いとどまって事の成り行きに乗ろうと決めた。

その日は他にゴボウやニンジンはじめ数種の作物の栽培の手順、農薬の有無ついて詳細な“レシピ”のレクチャーを受けた。千晶はその一言一句を逃すまいとメモする。肥料はMコート、石灰と牛糞を混ぜる方法、除草剤を使うタイミング・・・・・・どれも初めて聞く単語ばかりで、千晶はとりあえず単語をカタカナでメモするのがやっとだ。土木枝さんはその様子を察し、ひとつひとつ丁寧に補足説明してくれた。

「チャッキーちゃん、ところで農園の名前は決まったの?」

説明の途中、土木枝さんは弾んだ声で千晶に訊ねた。

「あっ、いいえ、まだ決まってないです・・・・・・」

申し訳なさそうに返す千晶に、土木枝さんは大丈夫、と言って手を取り、嬉しそうに話した。

「この辺りはね、まだ多くの農家の方ががんばっとるけど、知り合いの中には跡継ぎがいなかったり、稼ぎが厳しくなって辞めた人も結構いるんよ。こうして若い方が農業を始めてくださるって、私たちにはとっても嬉しいことなの」

そうして土木枝さんは、自分の知人が抱えている農業の実態について少しだけ話してくれた。多くを語らなかったのは千晶への思いやりからであったが、それでも千晶は午前中に謎の作業員から聞いた耕作放棄地の話もあって、神妙な面持ちで土木枝さんの話を聞いた。そして話を聞くたびに、農業について何も知らない自分がこの場にいることがとても失礼なことのように思え、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「まずは畑を開いて、どんな作物が合うかいろいろ試してみましょか」

一通りの打ち合わせが終わったのか、田中さんがそう呟いて話を締めくくった。

謎の作業員もその言葉にうなずき、また携帯電話を取り出してどこかに電話をかけた。

「チャッキーさん、ほんなら、行きましょか」

「あ、はい、え?どこへですか?」

「少し、畑に慣れましょう。ワシらも手伝ってもらえると助かります」

田中さんは再び人なつっこい笑顔を浮かべて千晶を外へ促した。どうやら農作業を手伝わせてくれるらしい。願ってもないことだったので、千晶は即答でその誘いに応じた。

畑に出てみると、そこには多くの種類の野菜が若葉を茂らせていた。トマトやきゅうりなど、いくつかは千晶にも判別できる種があったが、なかには見たこともない野菜の葉もあった。

田中夫妻は畑に植えた野菜をひとつずつ紹介してくれ、その後千晶はみっちり2時間ほどかけて草取りを手伝った。草取りの後は、石灰と牛糞の混ぜ方など、さきほどメモした技術のいくつかのレクチャーを受けた。

全てが初めての体験。そしてそれは、千晶が想像していた以上に熱心に打ち込める作業の連続であった。作業は、正直言ってきついし疲れる。でも、と千晶は思った。これまで自分がやってきた仕事と比べ、目に見える達成感のようなものを感じる。もしもこうやって手間ひまかけて育てた作物が見事に実ったら・・・・・・そう考えるとワクワクした気分にさえなる。

「なんか、私こういう作業って初めてなんですけど、楽しいですね」

そう呟く千晶を見て、土木枝さんがにこりと笑う。

「そうやね。私もお父さんと長いことやっとるけど、みんなでやったらいっそう楽しいわ」

「すいません・・・・・・私なんにも役に立てなくて。もっといろいろできたら、土木枝さんたちのお役に立てるのに」

ええんよええんよ、土木枝さんは千晶を励ますかのように笑って顔を振った。

「私らこそありがたいわ。昔っからこうやって、いろんな人に手伝ってもらいながらやってきたんじゃけん。チャッキーちゃんも全部一人でやろうと思わんと、チャッキーちゃんにしかできんことをやればええと思うよ」

私にできること―

そのとき千晶の中で、何かスイッチのようなものが、カチッ、と音を立てた。うまく言葉にできない。しかしスイッチの音は確かに聞こえた。そのとき、謎の作業員が帰るぞ、と呼ぶ声がした。千晶は田中夫妻に何度もお礼を述べ、畑を後にした。

「また遊びに来てね!」と手を振る土木枝さんに、千晶は車の窓から身を乗り出し、ハイ!と大きな声で応えた。

帰りの車中、謎の作業員は明日畑を開墾することを伝え、簡単なスケジュールを説明した。千晶が畑仕事を手伝っている間、彼はその段取りをしていたらしい。第1弾の日程は3日。明日は彼の知り合いに手伝いに来てもらうらしいが、2日目と3日目は千晶の会社から助っ人を呼ぶように、と告げられた。千晶は日程を手帳に記し、部長に助っ人の要請をメールした。ある程度流れをつかむまで、人を動かす際は自分を通すようにとの、部長の指示だった。

「作業員さん」

明日からの段取りを確認した後、千晶は謎の作業員に今の自分の考えを整理するように話し始めた。

「農家って、ほんとうに大変なんですね」

そらそうやろ、と謎の作業員は相槌を打った。

「でも私、農業って思ったよりワクワクするんだなって、そう思ったんです」

謎の作業員は、今度は黙っていた。

「この仕事を任されてから、私なにをしていいか全く思いつかないんです。農業なんてやったことないし、知らないことだらけで頭パンクしそうだし。でもきっとそれって、私と同じくらいの世代の人の大半がそうだと思う。だから・・・・・・うまく言えないけど、こんな私でも立派に農業をやり遂げることができたら、それを伝えることができたら、もっと農業を身近に感じることができたり、実際に始める人も出てくるかもしれない。そしたら、カミのおじちゃんやおばちゃんも助かって、日本の放棄された畑も復活するかもしれない。私は、このプロジェクトを通してそういうことに取り組みたい。そう思っているんですが・・・・・・どう思いますか?」

運転する前方を見つめながら、謎の作業員は静かに答える。

「決めるのは、園長や」

簡単な一言だったが、千晶にはそれが彼なりの後押しの言葉のように感じられた。

その夜、千晶は家に入る前、庭で寝ていた愛犬のチャッキーのもとへ向かった。チャッキーは千晶の気配に気づいて片目を開けたが、すぐにまた目を閉じた。チャッキーの頭をなでながら、千晶はこの捨て犬を本気で家族に迎え入れた日のことを思い出していた。どこまでやれるかわからない。だけど、やれるとこまでやりきってみる。

「チャッキー。私、やってみるよ」

チャッキーはその決意に答えず、のんきに寝息を立てていた。

 

 

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翌日。天気は晴れ。少し肌寒い朝の気配を突き破るかのように、遠く山の上から朝日が眩しく射してくる。

昨夜爆睡した千晶はこの日、自分でもびっくりするくらい早起きをした。昨日はだいぶ体がくたびれていたが、目が覚めると疲れはどこかに吹っ飛んでしまっていた。それどころか体が軽い。千晶はそのまま飛び起き、手早く身支度を済ませ、まだ夜も明けきらぬうちに車で農園に向かった。

昨日見たのと変わらず、農園は草や竹が生い茂る荒れ果てた様相のままだった。しかし昨日感じていた絶望感はない。現実逃避のズワイガニもない。あるのは少しの不安と、やりきる覚悟、そしてその先にあるワクワクの予感だった。

遠くで、車のエンジン音が聞こえた。やがてそれは農園に近づき、小屋の手前で止まる。

謎の作業員は荒れ果てた農地の前に仁王立ちする千晶の姿を見て、ほう、と小さく呟いた。

「なんや、いっちょまえにやる気出したか」

「はい。作業員さん、私決めました」

「何を」

「私、カミのおじちゃんたちみたいにがんばっている人の姿や農業のことを伝える、メッセンジャーになります」

それは千晶なりの「起業宣言」だった。この日、千晶は本当の意味で第一歩を踏み出したのだ。

「ほうか」

謎の作業員も千晶の隣に立ち、そう答えた。その後に、それなら、と続ける。

「ほんなら・・・・・・この農園の名前を決めんとな、園長」

名前はもう決めていた。捨て犬ならぬ「棄て畑」―耕作放棄地を任された、農業ド素人の自分。名前をつけるならこれ以外にない。

「チャッキー」

「なに?」

「チャッキーファーム。この農園の名前です」

謎の作業員は口をあんぐりと開け、やれやれ、といった表情を浮かべた。

「なんだか締まらん名前やのぅ」

こうして、千晶とチャッキーファームの長い日々が始まった。

(つづく)