兵庫県・朝来市。 標高353.7mの小高い山は、昔から地元の人に「虎臥山」と呼ばれている。
山頂には廃墟となった城跡がある。その石垣の形が、麓から見ると虎が臥しているように見えるためそう呼ばれているが、小学校の遠足で登る以外、地元の人はほとんど見向きもしない山である。
その山に最近、県外から訪れる人が増えてきた。世間では「日本のマチュピチュ」と呼ばれ脚光を浴びているらしく、朝来市ではその観光を促進する課が今年の春新しく設立されたほどである。しかし昔からこの地に住む人にしてみれば、「何が面白くてあんな何もない山を」と不思議でならない。むしろ、静かなこの集落が騒がしくなったように感じるだけで迷惑がっている人さえいる。
「シゲちゃん」こと 田村重雄さんもその一人だった。子どもの頃から何となく知っていた山。畑のねぎを痛める雪が降らないか空を見上げたとき、視界の隅に入る程度の城跡。いっそゴルフコースだったら興味のひとつも湧いただろうにー迷惑とまでは思っていないが、車を停めて道を訊ねてくる都会の若者を相手にするたび、あーまたか、という気持ちがないわけではない。朝来は、近畿地方で人気のあるハチ高原スキー場の途中に位置し、シーズン中は近くの和田山インターで降りた若者が近所のコンビニにたむろする姿も珍しくない。シゲちゃん本人は経験がないが、知り合いがマナーの悪い学生に遭ってうんざりした、という話を聞いて以来、外から来る人間にあまり良いイメージを持っていない、というのも理由にある。
その日も一人の若い女性が、畑でネギの土寄せをしているシゲちゃんに声をかけてきたとき、あーまたか、と思った。先日も竹田城址への行き道を訊かれたばかりだ。シゲちゃん自身も詳しい行き方を覚えているわけではなかったので、そのときは教えるのにかなりの時間を費やした。相手は女子大生らしい3人組だったが、最後は少し首をかしげながら、苦笑いでお礼を述べそそくさと立ち去ったのを覚えている。そのときの彼女らの少し残念そうな苦笑いの表情がシゲちゃんには少なからずショックだった。似た思いをこの1、2か月で数度味わってきたため、この日は若い女性に声をかけられた時点で半ば反射的に「またか!面倒くさいな」という感情が先に立った。
その女性は、スーツ姿に身を包んでいた。仕事だろうか。少なくとも観光で来ている様子ではなさそうだ。
「あー、虎臥す・・・・・・城やったらほれ、向こうの大っきい道をあっちへ行ってみい。看板があるわ」
シゲちゃんは屈み作業でこわばった腰をゆっくり上げながら、最近で最も効果のあった「道案内」を教えた。「虎臥山」だと観光客にほぼ伝わらないため「城」とか「日本のマなんとか」と言い換えることも経験済みだ。 しかしその女性は、え?とでも言いたそうなきょとんとした表情で立っている。 あれ?ワシ今間違っとったか・・・・・・?シゲちゃんも一瞬、思考が止まる。二人の間に、変な空気が漂い始める。
「あ、いえ、そうじゃないんです。じつはそのネギのことでお伺いしたくて・・・・・・」 変な空気を取り繕うかのように、スーツ姿の女性が慌てて質問を続ける。
「あ、コレ?」シゲちゃんも自分の早合点を少し照れながら、右手に持つネギを少し上に掲げる。
「あ、はい。たまたま通りがかりで目にしたんですが、そのネギ、岩津ねぎ・・・・・・ですよね?」
ほう―シゲちゃんにはその質問が意外であり、新鮮でもあった。どう見てもこの辺りの住民ではない。イントネーションも違う。そんな、しかも20代かそこらの会社勤めらしき女性の口から「岩津ねぎ」という言葉を聞いたのは、シゲちゃんの人生において初めてのことだった。もしかして市役所か農協に転勤してきた新入社員か何かか?不意打ちを食らって停止していた思考が、にわかに回転し始める。
そうや。よう知っとるな。あんた・・・・・・転勤してきた職員さんか何かか?」
「あぁ~、えっと、まぁ、はは・・・・・・」肯定とも否定ともとれるような曖昧なスマイルを、その女性は浮かべた。
「あ、それでですね。その岩津ねぎ、肥料とかどうされてますか?」
ここでシゲちゃんの警戒アンテナが微かに反応した。本当に農協の職員なら、返答次第では肥料や農薬についてこと細かに追及されるかもしれない。農協の規定を満たす生産方法をとってはいるが、適当に答えると後々面倒なことにもなりかねない。しかしこんな形で訊かれることはこれまで一度もなかったし、仮にそうだとしても、きっと顔見知りの職員も同行して紹介してもらったうえでの話となるだろう・・・・・・。
さまざまな憶測が脳裏をよぎる中、とりあえずシゲちゃんはどの農家でも使う一般的なものだけを挙げ、詳しい名称は農協の資料に書いてある、とだけ答えた。
「そっか・・・・・・みんなやっぱり農薬使ってるんだな・・・・・・」
その女性は独り言のようにそう呟いたが、それ以上は何も訊かず、お礼だけ述べて車で去ってしまった。うら若き乙女が乗るには似つかわしくないトヨタのハイエース。JAのロゴは入っていないので、どうやら農協関係者ではなさそうだが・・・・・・。シゲちゃんは畑の真ん中で立ち尽くしながら、去っていくハイエースの後ろ姿をぽかんと見つめていた。
朝来市一帯は、一年を通して雨の日が多い。
この日も朝から雨が降っていたため、シゲちゃんは午前中の農作業を断念し、ストーブに火を入れテレビのワイドショーを見ていた。もう1、2週間もすれば本格的に雪が降るだろう。岩津ねぎの収穫シーズンは、冬の天気と付き合っていく日々でもある。
久しぶりに、午後からゴルフの打ちっぱなしにでも行ったろかな―ワイドショーを見ながら、ぼんやりと今日の計画に思いを馳せる。
ワイドショーでは、先日も取り上げられていた中国の農薬問題について女性コメンテーターが辛口な意見を述べていた。
(またかいな―)シゲちゃんはそのときも論じていた同じコメンテーターの過激な批判を聞きながら苦い表情を浮かべた。
そのコメンテーターは一貫して無農薬・無化学肥料の重要性云々を支持し啓蒙している。そのこと自体はシゲちゃんも否定しないが、一方で自分のことを全否定されているような気分にもなる。
生まれも育ちも朝来・和田山。数年前に市町村合併し朝来市が誕生したが、田んぼと畑と円山川が広がる風景は昔も今も変わらない。
若いころはやんちゃもし、県外に出て働いたこともある。家を継いでからいろんな農作物を生産したが、今は歳も取り、生産物もほぼ岩津ねぎだけに絞っている。収穫したネギは古くから付き合いのある人に販売し、後は農協に卸す。時間が空いたら釣りにゴルフ。今の自分にはそれで充分すぎるし、悠悠自適な生活を送っているとさえ感じている。
その岩津ねぎも、老いた体には年々こたえてきている。もともと岩津ねぎは朝来一帯で生産した品種にのみその名を冠することを許されている。他のネギには見られない管理の下でブランドを守ってきた歴史を持つが、その副作用というべきか、今では自分を含め生産者もほとんどが70歳以上。その数も年々減ってきている。
生まれてからずっと食べてきた、自分にとっては「当たり前のネギ」。たいそうな矜持を持っているわけではない。
それでも岩津ねぎの無い朝来、と考えたときは少し寂しい。
武士の一分。一寸の虫にも五分の魂。理由や経緯はどうあれ、岩津ねぎをつくり続ける理由にはそれなりのプライドも少し絡んでいるような気もする。
老いて重くなった(人によっては腰痛もひどいであろう)腰を上げて生産する岩津ねぎを次世代につなげるため―言い訳と言われればそれまでだが、そんな状況で一定の品質や見た目を保持するためには農薬の力も借りなくてはならない。
細菌性の軟腐病。カビが原因の斑点性病。土壌で菌糸が繁殖する白絹病。
身が柔らかいネギ科の植物を襲う病気は数多い。白ネギであれば青葉の部分を剪定するなどの処置も可能だが、白茎も青葉も香り高く味わえることが自慢の岩津ねぎにとって、それは「売り物にならない」致命的な選択と同義である。
適度な間隔で植え、夏季の草引き(雑草を間引いてネギに栄養を行き渡らせる作業)時はネギを傷つけないよう細心の注意を払い、常に畑に湿気がこもらないよう手を入れる。秋から冬にかけては、白茎を伸ばすための土寄せを何度も繰り返すし、吹雪や強風で身が痛まないようネットを張るなどの対策も必要だ。
シゲちゃんがそれこそ赤子の世話をするように年中無休で育てれば、岩津ねぎを無農薬で育てることは不可能ではない。しかし自分の体力を考えると、それが可能な面積はせいぜい1畝。2畝になれば身体にかなりの負担がかかるのは目に見えている。それ以上は無理だろう。2畝―岩津ねぎを農協に卸す価格から考えれば、自分一人を食わせていける収入にはほど遠い規模である。
―たかがネギや。こんなもんいつでもやめたるわ。
―人間かて、カゼひいたら薬飲むわ。野菜も同じじゃ。
かつて、そう思ったこともある。まだ農家を継いだばかりの頃、シゲちゃんも悩み、考え、一心不乱に取り組んだ。理想と現実の狭間で土を耕し、できたこともできなかったこともある。苦い思いも経験した。
そうして今、シゲちゃんは歳をとった。まだまだ若いと自負しているが、あの頃のような体力はもう無い。
今は静かに、お世話になった人を相手に畑を耕し、岩津ねぎをつくる。それでいい。
「それでは各地の天気です。〇〇さん?」
気がつくと、テレビでは全国の雨模様が映し出されていた。
その日、シゲちゃんは出荷のため向かった農協で近所の知り合いに会った。
キヨさんと呼ばれているその人物は、丹波黒を出荷しているところだった。
「なんや、今年は量が出来んかったんかい」
和田山周辺では丹波黒の生産も行われている。一般的に大豆はネギよりも手間がかかるため、ここ10年で丹波黒の生産者もずいぶん減っていた。キヨさんはその中で建築業の傍ら積極的に丹波黒の生産に取り組んでいたが、その日農協に卸していた量は、例年に比べると幾分少ないように見えた。
「へへ。今年はな、ちと若いモンに枝豆を分けたったんや」
キヨさんがやけに楽しそうな表情で話すので、シゲちゃんも興味がわいて詳しく聞く。
話によると、キヨさんは最近、ある若い女性の丹波黒づくりを手伝っていたそうである。その女性が先日、他県のイベントで丹波黒の枝豆を販売することになったので自分の枝豆をわけてあげたのだという。
「なんや変わった娘なんやが、おもろいことやりよってな。ちょっと力になりたいな思ったんや」
「はー、若いモンはいろいろ考えるもんやなぁ」そう呟きながら、シゲちゃんはふと、先日会った奇妙な女性のことを思い出した。
「そやそや、ワシもこないだ畑におったとき変わった人に声をかけられての」
それからシゲちゃんはそのスーツ姿の女性のこと、岩津ねぎに使用している肥料や農薬について訊かれたこと、もしかして彼女は農協か市役所に配属された新人なのではないか、という憶測をキヨさんに話した。
「へー、そうなんや・・・・・・しかし最近そんな人が移ってきたなんて話、聞いてないなぁ」
「なんや、情報通のキヨも知らんのかい。せやったらあれは、ただの観光客やったんやろか?」
「へへ、もしかしてシゲちゃん、スパイされたんとちゃうんか?」キヨさんがいたずらっぽい表情を浮かべてシゲちゃんをからかう。
「あほ。なんでワシがスパイされなあかんねん」
「へへへ。シゲちゃんはネギの師匠やからなぁ。あ、・・・・・・そういえば、田中さんがあんたに話があるって今朝言っとったわ」
「田中さん?どこの田中さんや」
「ほら、カミのとこのおばちゃんや。なんや岩津ねぎのことで頼みたいことがあるって」
「カミのおばちゃんが?」
「今やったら家におるやろ。帰りにでも寄ったったらどうや?」
「ほうか。んじゃちょっと寄ってみるかな」
シゲちゃんが田中宅を訪れた時、カミのおばちゃんは居間でテレビを見ていた。
「なんや、キヨから聞いたが、どうかしたんか?」
「いやいや、シゲちゃん。あのな、じつはちょっと頼みがあってな」
そう言ってカミのおばちゃんはシゲちゃんにある相談事をもちかけた。
「ワシに、岩津ねぎを教えてほしいって?」
「そうなんよ。私の知り合いのかわいいコなんやけど、シゲちゃんのほうが詳しいやろ?お願いできんかなぁ」
「あー・・・・・・まぁええけど。いつがいいんや?」
シゲちゃんはカミのおばちゃんにもらったみかんを縁側で剥きつつ、今週と来週のスケジュールを頭の中で思い出した。とりあえず岩津ねぎ収穫本番まではまだ日があるし、寄り合いの予定もとくにない。カミのおばちゃんの話だと週明けにその人物がこちらに来るそうなので、前日までに連絡をくれれば空けられると思うので大丈夫だろう、と答えた。
「いやーおおきに!助かるわぁ。ほんならまた声かけるわ」
「ワシに、岩津ねぎの育て方をねぇ・・・・・・」
ま、ええか。そう思いながらシゲちゃんは、家に帰ったら教える内容をメモにでもまとめようかな・・・・・・などと考え始めていた。
カミのおばちゃんの話だと、その人物は若くてかわいい女性らしい。
孫に会う時のワクワク感にも似た感情。男にとって、幾つになっても「若くてかわいい女性」に会うのは楽しいことなのだ。
変なめぐりあわせもあったもんやなぁ。
約束の日、シゲちゃんが開口一番声に出したのはその一言だった。
カミのおばちゃんが連れてきた「若くてかわいい女性」は、先日ハイエースに乗ってきた、あのスーツ姿の女性だった。
その日はスーツではなく、着慣れた感じのするつなぎ姿に、これまた履きなれた感じのする長靴のいでたちだった。スーツの時は気づかなかったが、よく見ると顔もこんがり日に焼けている。
「あんた、こないだの」
そう言うと、向こうも気づいていたらしく、先日はありがとうございました、とペコリと頭を下げた。
岩津ねぎの育て方を、と聞いていたため、シゲちゃんは一応事前に手書きのメモを用意していたのだが、その日はカミのおばちゃんからの提案でとりあえず岩津ねぎの土寄せと収穫を手伝ってもらうことにした。
土寄せとは、根をしっかり張らせたり、根の露出を防ぐために作物の根元まで土を寄せてかけることである。多くの作物で品質の向上を目的として行われる作業だが、ネギの場合は白茎の部分を育てたり、軟化させ品質を上げるために行われる。寄せた分だけ白茎が伸びていくため、ネギは他の作物より土寄せが高くなるなど、寄せ方が変わるのが特徴だ。
シゲちゃんは岩津ねぎの土寄せのやり方を教えながら、目の前でせっせと土寄せをこなす女性との先日のやりとりを思い出していた。
この娘は、なぜあんな質問を投げかけてきたんや?
先週見たワイドショーの辛口コメントを思い出す。この娘も農業に大きな理想を掲げているのだろうか?
はじめは気にするまいと作業に専念していたが、考えれば考えるほど気になって仕方がなくなり、とうとうたまりかねて(それでもさりげなく)その女性に質問した。
「あんた、・・・・・・なんでこないだ、あんなこと訊いたんや?」
女性は作業の手をすこし緩めたが、そのまま止めることなくその問いに答えた。
「え、いや、なんでと言いますか、岩津ねぎ初めてだったので、事前にいろいろ聞けたらなーっと思いまして」
少し照れくさそうに笑うその表情からは、別段他意があるふうでもない。
シゲちゃんは、別の質問を投げかけた。
「あんたはどう思う?この肥料とか薬品のこと」
そこで初めて、女性は作業の手を止めた。軍手で額の汗を拭い、その問いにやや少し時間をかけ、しかし澱みなく答える。
「―わかりません」
「は?」
「薬まみれの、見た目だけキレイな野菜は気持ち悪いし食べたくないけど・・・・・・私、まだまだ足りないんです」
「足りない」-それはシゲちゃんにとって予想外の返答だった。
「足りないって、何が?」
「あ、えっと、あの、自分で言うのもアレなんですが」女性は少し照れくさそうに身振り手振りを加え答える。
「私、自分で育てた作物が子どものように思えるときがあるんです。どこの子よりもかわいいし、ちゃんと立派に育ってほしい。だから無農薬とか、本当はそういう育て方をしたいなって思うんですけど、それって作物だけじゃなくて、土とか、自分のところ以外の畑とか、売る先の条件とか、生産する人の体力とか、食べてくれる人の既成概念みたいなものとか、そういうところまで見ていかないと無理なのかなって最近思いまして。今の私にはそこまで見るほどの知識も経験も力もまだまだ足りないんです。だからといって、ちょっと農薬とかで助けてあげれば元気になる作物まで見捨てるのかって考えるとそれも納得いかないというか・・・・・・だって本当の子どもだったら、ちょっとカゼひいて熱とか出したら病院でお薬出してもらうじゃないですか?ちょっと病気になったからって子どもを捨てる親なんていませんよね?」
シゲちゃんはその温和そうな眼を丸くした。そしてその後、愉快そうに大声で笑った。
「あんた、おもろいこと言うなぁ!」
「えー?そんな、笑わないでくださいよ!」
女性は少し口を尖らせた後、ぶつぶつ言いながら作業を再開する。
「なんですかねー・・・・・・自分の力不足で農薬とか使うのは反省ですけど、だからって治る病気を見過ごすとかってのは、ちょっと違うと思うんだけどなー・・・・・・ぶつぶつぶつ」
次の日も、その次の日も、女性はシゲちゃんの畑を手伝いにやってきた。
話を聞くと、彼女の住まいは他県だが、今回は3日ほどある人の家に泊めてもらいシゲちゃんの作業を手伝うそうである。
その人物はシゲちゃんも知っている人物だった。昔から悪ガキで有名で、10年以上前に県外で起業し成功したと聞いている。家もシゲちゃんの近所で、そういえば納屋を改築した離れがあったな、ということも思い出した。彼は別の用事を済ませ、明日和田山へ来るのだという。
その日の夜、シゲちゃんは居間でテレビを見ながら、自分の生徒となった彼女の言葉を思い出していた。
自分が育てた作物は子どもと同じ。病気になったら元気にしたい。そのための薬が間違いだとは思えない。
てっきり、農薬は反対です!とでも言うものと予想していた。あの若さなら目指す理想のひとつだろうし、言って当然のようにも思う。
だけど、彼女はそうは言わなかった。そのことがかえって、シゲちゃんにある種の希望のようなものを抱かせていた。
―あの女性なら、本当の意味で何かやれるかもしれない。
何が「本当の意味」なのか、そのときのシゲちゃんはそれをうまく表現できなかった。しかし自分のような年老いた生産者を置いて行かず、それでも何かを模索している彼女の姿勢をこの数日目の当たりにするうち、胸の底でそのような予感が芽生えてきていることをシゲちゃんは実感していた。
「あれ?」
そのときシゲちゃんは、自分でも笑ってしまうくらい間の抜けた声をあげた。
「そういえば、あのコなんて名前やったっけ?」
次の日、シゲちゃんは畑に出る前から妙にモジモジしていた。
自分の生徒の名前を思い出せないことと、改めてそれを訊くことの恥ずかしさがそうさせていたのだが、名前を忘れられた本人はそのことに全く気づく様子もなく、いつものようにせっせと作業を始めた。シゲちゃんはそのことでさらに訊くタイミングを逃し、いったん諦めて自分も作業に専念した。
この数日で、彼女は教えたことを確実にものにしている。肥料や農薬のことも細かくメモに書いているし、疑問に思ったことも的確に質問してくる。教えているのはシゲちゃんだが、彼もまた彼女の姿勢に教えられることがあると感じていた。
作業を始めて約1時間後、彼女に寝泊りを提供している「悪ガキ」の知人が歩いて畑へやってきた。彼もまた、着慣れたオレンジのつなぎ姿がよく似合う。
「まいど、師匠」
歩きたばこで口笛を吹きながら颯爽と登場した知人は、挨拶代わりにシゲちゃんを軽く茶化す。
「まったく、相変わらずの悪モンやな。あんないたいけな娘を、カミのおばちゃんまで巻き込んでよこしおって」
シゲちゃんも知人に悪態を返すが、その表情は楽しそうだ。
「―なんや、おもろいコやなぁ」
「なに言うとんねん。まだまだや。まだまだあほぅ」
知人が“超”上から目線で、向こうでせっせと土寄せをしている彼女をバッサリ切り捨てる。
(ほう。こいつもあのコに期待しとるんやな―)
シゲちゃんはその発言を聞いて確信した。昔からそうだった。彼が他人をそう言うときは、必ず何かを見込んでいるときなのだ。
「お前、また何か企んどるな」
娘―下手をすれば孫くらい歳の離れている彼女を眺めながら、シゲちゃんは知人の真意を探る。
「あの娘さん、お前んトコのやろ。・・・・・・いったいあのコに何をやらかす気や」
知人は、これもまた昔から変わらないが、にやりと唇をゆがめ不敵に笑う。
「ワシはただの“謎の作業員”や。ふ、ふ、ふ」
そのとき、女性が手を振り、大きな声で指示を仰いだ。
「シゲちゃーん!こっちの畝、どうしましょうかー?」
彼女が指差した畝は先週土を寄せたばかりで、まだネギが育ちきっていない。
「あー、そこはそのままでええよ」そう言い終えてすぐ、シゲちゃんは、あ!と言葉を続ける。
「それとなー!キミ・・・・・・何て名前やったっけー?」
女性も、悪ガキ知人も、一瞬きょとんとする。直後、「えぇー」といったドン引きの表情。
「なんや、シゲちゃんついにボケたんか」
「もー!ひどいですね!こんなに一緒にいたのに!」
「あー、ははは・・・・・・すまん!昔から人の名前だけはよう覚えきらんのや!」
「もー!いいですよ!じゃあ・・・・・・チャッキーって呼んでください!」
チャッキーと名乗った女性はそう言って、シゲちゃんにアッカンベーをした。
(つづく)