「チャッキ~!!」
“カミのおばちゃん”こと田中土木枝さんは、千晶の姿を見て嬉しそうに叫んだ。
兵庫・和田山。田中夫妻宅へ到着したのは14時過ぎ。もう何度も通い、見慣れたはずの道のりだったが、この日の千晶は少し緊張していた。出発前に見せた、謎の作業員の不敵な笑み。何かが大きく動こうとしている、そんな予感。初めて農園事業の辞令が降りたときとはまた違う緊張。そのときの千晶は、それが高揚だとは自覚していなかった。
「おとうちゃんは中で待っとるよ」そう言ってカミのおばちゃんは、千晶と謎の作業員を敷地内の納屋で待つカミのおじちゃん―正利さんのもとへ誘った。カミのおばちゃんの態度はいつもと変わらず落ち着いた、愛嬌のある態度だった。しかし千晶にはそれさえ、少し興奮しているように映る。
(いったい何が納屋にあるのだろう・・・・・・?)
早く見たい気持ちと、ちょっと待って!まだ心の準備が!!という気持ちが胸の中で交錯している。しかしカミのおばちゃんと謎の作業員は、千晶の思いなどおかまいなく納屋の中へ入っていく。
おそるおそる、納屋へ一歩足を踏み入れる。その瞬間、何かを茹でたような良い香りが千晶の鼻孔をくすぐった。「何か」はすぐにはわからないが、どこかでかいだことのある香り。それも美味しそうな、ワクワクする香りだ。
千晶と数日ぶりの再会の挨拶をかわした後、カミのおじちゃんは少し誇らしげに香りの正体を千晶に見せてくれた。
「これですわ。今は時期やないんで探すのに苦労しましたが」
千晶は香りのもとを確認する。
枝豆・・・・・・?
差し出されたのは、茹でたての枝豆であった。だが千晶の知っている枝豆と微妙に違う。さやに生えているうぶ毛がちょっと力強い気がするし、何より香りが今までかいだことのないような香ばしさを放っている。これって・・・・・・。
「丹波黒、いいます」
カミのおじちゃんが、答えを求める千晶の表情を察しその枝豆の名を口にした。
「枝豆の王様、畑のブラックダイヤモンドや」
謎の作業員もニヤリと笑う。
納屋には茹でたもののほかに、枝についたままの丹波黒も菰に敷いて積まれていた。
「時期が早いので味は100%とはいきませんが・・・・・・まずは食べてみてください」
カミのおじちゃんにすすめられ、千晶はひと粒手に取り口に運ぶ。
(あ、これって―)
口の中で豆を噛んだとたん、濃厚な香りが口いっぱいにひろがる。
枝豆というよりは、トウモロコシに近い甘み。食べなれた枝豆の味にもう一枚、濃厚で上品な味が重なっている。粒も普段のものより少し大きい気がして、それが味覚の濃厚さをさらに掻き立てている。
「どうです?できたての豆乳みたいな味がするでしょう」
カミのおじちゃんは、千晶の反応を嬉しそうに眺めている。
(そうだ!豆乳だ!)
千晶もハッと思い当った表情を浮かべる。
(そして―おいしい!!)
丹波黒は、出生は定かではないが江戸時代の初期にはすでに栽培されていたと文献にある。その味は当時から絶品で、徳川幕府にも献上されていたという記録も残っている、いわば「名門の逸品」だ。もともと高級品として正月のおせち料理に重宝されていたが、近年マンガ『美味しんぼ』をはじめ各メディアで「黒い枝豆」として紹介され、最近では枝豆としての人気も高い。千晶も以前、ちょっとだけ敷居の高い和風居酒屋で(会社の飲み会で行った)名前だけ見たことはあったが、実際こうしてじっくり味わったのは初めてのことであった。
「チャッキーさん、丹波黒はえらい手間ヒマがかかりましてな。農家の間では“黒豆”やなくて”苦労豆”て言われるくらいなんですわ。彼からの提案で用意はさせてもらいましたが・・・・・・あとはチャッキーさん、園長としてこの手間のかかる豆、育ててみはりますか?」
千晶は胸が、ドキンとした。
一筋縄ではいかないブランド豆を、素人同然の自分が挑戦する。もちろん、謎の作業員やカミのおじちゃん、おばちゃんをはじめ、自分には協力してくれる仲間がいる。もしこの丹波黒を見事育てきることができたら・・・・・・。
「やります!私、この丹波黒育ててみたいです!やらせてください!」
いける―前のめりな千晶の態度を見て、謎の作業員は確信した。
「よっしゃ、そんならコレでいこか」
そう言って、謎の作業員は全員の前に右手をすっと差し出した。
「収穫は秋や。みなさん、よろしゅうたのんまっせ」
千晶が、カミのおじちゃんとおばちゃんが、すっと手を重ねる。
「園長、かけ声や」
千晶は高なる鼓動を落ち着かせるように、大きく深呼吸をした。
「はい。―ではみなさん、協力よろしくお願いいたします!」
「おう!!」
たった4人ではあるが、そのかけ声は千晶にとって何よりの心の支えだ。こうして、千晶とチャッキーファームの最初の“大きな挑戦”が始まった。
丹波黒の栽培には、膨大な手間ヒマがかかる。
その理由として栽培期間の違いが第1に挙げられる。一般の黒大豆(小粒種黒大豆)が開花から成熟するまで70日を要するのに対し、丹波黒はさらに30日長い100日かかる。これは丹波黒が一般の黒大豆に比べ長い期間養分を蓄積しながら成熟するためと考えられている(これによって味に違いが出るわけだが)。当然その分、収穫のタイミングと量に差が出てくる。加えて夏場の土寄せや水やりなどの作業も通常と比べ格段に多い。さらに一般の大豆が百粒約30グラム(一般的に大豆の大きさや重さは百粒単位で換算する)であるのに比べ、丹波黒は約80グラムと3倍近く大きい。その分収穫や乾燥にも手間がかかる。丹波黒を「苦労豆」と言わしめるゆえんである。現在は機械化がかなり進んでいるとはいえ、丹波黒は昔ながらの手作業で栽培している農家も多い。そういった背景から、一般の黒大豆が一反あたり約250キログラム獲れるのに対し、丹波黒は約130キログラムと、半分程度の量しか獲れない。それが丹波黒のブランドをさらに高め、とくに丹波黒のメイン産地である兵庫県の生産量は年々増加の傾向にある。 (※兵庫県丹波黒振興協議会より)
手間と時間はかかるが、育て甲斐のある枝豆―それが「丹波黒」なのだ。
カミのおじちゃんの納屋で円陣を組み「小さな決起会」を行なって以降、千晶は今まで以上にカミ夫妻宅を訪れ、土の盛り方から肥料の配合、水やりのタイミングなど丹波黒栽培にまつわるさまざまなポイントをレクチャーしてもらった。
まずチャッキーファームの一角、かねてから謎の作業員とカミのおじちゃんが目ぼしをつけていたポイントに丹波黒の種豆を植えた。事前に起こしておいた畝を少し高く盛り、真っ黒な種豆を2粒、近い距離に植える。
まだ日の浅い千晶にも、「こんなに近くに2つ植えたら、栄養が行き渡らないんじゃないんですか?」という疑問は湧いた。しかしカミのおじちゃんは、ええんよ、と笑って言った。
「これは間引くための植え方なんよ。芽が出たときに、また教えますわ」
肥料は、まだ土が出来上がっていないこともあり、とりあえず基本の牛糞と石灰で整えた。夏の作物の生育具合を見て、追肥していく作戦だ。
チャッキーファームの丹波黒はこうして的確な指導のもと種植えを進めていったが、カミ夫妻はそれだけでなく、和田山での栽培も提案してくれた。
というのも、丹波黒の土づくりは他の作物と比べてかなりハードルが高いからだ。
丹波黒は「同じ畑で2年続けて栽培できない」と言われるほど、土に対し高い条件が求められる。本来なら土がほどよく乾燥する晩秋までに土づくりを完成させるのが理想だが、時期的にチャッキーファームではそれが不可能だったため、カミ夫妻の見解では「今年は丹波黒本来の出来には及ばないだろう」とのことだった。一応、謎の作業員とカミのおじちゃんが事前にチャッキーファームの土を確かめ、「ここならいけるかもしれない」というポイントを定めてはいたのだが、やはり条件を満たしていないことは痛い。
もちろんチャッキーファームとしては来年、さ来年を見越して―という意味では挑戦する価値がある。しかし夫妻はそれだけでなく、千晶に丹波黒の真価をぜひ体験してもらいたい、という思いを抱いていた。そのため、和田山での栽培を提案してくれたのだ。
「チャッキー、ちょっと向かいのキヨさんとこ行こ」
その提案を切り出したとき、カミのおばちゃんは千晶を自宅の向かいにある一軒の農家へ誘った。
キヨさん―足立聖(きよし)さんは和田山に住む農家のエキスパートである。身長は170センチくらい。年齢は50代とのことだったが、身長が高いこともあってとても50代には見えない逞しい体つきをしている。カミのおばちゃんとは古くからのご近所さんで、彼女は足立さんのことを「キヨさん」と呼んで親しんでいた。
キヨさんの畑には、千晶がこれから挑戦する丹波黒をはじめ数種類の作物が葉をつけていた。初夏の陽射しを体いっぱいに浴びている作物の新葉は目にも鮮やかで、千晶にもやがてたわわに実るであろう作物のみずみずしさが容易に想像できた。
カミのおばちゃんとキヨさんはすでに話をつけていたらしく、千晶はすぐに畑の一角に招き入れられた。
「なんや、えらいべっぴんさんが丹波黒を育てたいと、カミのおばちゃんから聞きましてな。たまたまこれから何か植えようとしてたトコがあったんで、よかったら好きに使おてください」
そう言ってキヨさんはにこりと笑った。「べっぴんさん」と呼ばれて舞い上がったのか、キヨさんの頼もしい雰囲気に力をもらったのか、千晶は思わず喜びの声をあげた。
「はい!ありがとうございます!よろしくお願いいたします!」
キヨさんの畑の土づくりはカンペキで、いつ作物を植えても問題ない仕上がりだった。千晶はキヨさんの畑の一角を借り受けることにし、かわりに収穫など人手のかかる作業を手伝うことを約束した。こちらで育てる分は種からでなく、キヨさんが育てていた分を少しわけてもらった。
それからお盆が過ぎるまで、千晶はめまぐるしく働いた。チャッキーファームではすでにこの頃、出荷しているバジルやミント以外にも、ナス、葉大根、スイカ、ごぼう、ニンジンなど数種の作物を育てていた。千晶はそれらの栽培も手がけつつ、契約先への出荷も行なっていた。契約先の飲食店も4店舗に増えていたため、千晶はほぼ毎日畑に出て作業する日々を送った。
会社へは作業の合間をぬって出社。作業着のまま行くのもしばしばで、同僚の第一声も「チャッキー、焼けたね~!」がほぼ定番化する始末だった。もともと外で体を動かすのが好きだったため日焼けはさして気にしていなかったが、さすがに作業着のまま会社に寄るときは少し恥ずかしかった。しかしそれもすぐに慣れ、またその作業着効果(?)か、同僚が休みの日にチャッキーファームへ手伝いに来てくれることが増えた。
こうして、周囲の協力もあって夏の作業はなんとか千晶と謎の作業員でまわすことができた。チャッキーファームの丹波黒は、種植えしてから2週間ほどで芽を出した。千晶はカミのおじちゃんが教えてくれたとおり、2つ出た芽のうち良い方を残し、もう1つを間引く作業に取り掛かった。そこからの作業は水やりと害虫駆除の繰り返しだったが、これが最も苦労した。
チャッキーファームには水道が引かれていない。厳密に言うと、すぐ近くまで来てはいるが粗大ごみがそこに捨てられていて使えない状態だった。
耕作放棄地の敷地内に不法投棄されている例は全国でも少なくない。チャッキーファームはまだ良い方だったが、地域によっては有毒物質が流れ出ていることもある。千晶はそんな社会問題も憂慮しながら、さしあたっては当面の問題―丹波黒にやる水の確保に取り組まねばならなかった。毎回(ほぼ毎日)、20リットルのポリタンクを持って最寄りの水場まで行き、水を汲んで畑へ戻る。これが想像以上の重労働だった。千晶は何度かたまりかねて、謎の作業員に「なんとか水道引けないですかね~・・・・・・」と半ばうらめしく泣きついた。謎の作業員も気持ちは同じだったため、ある日不法投棄された冷蔵庫などをいくつか動かしてみたのだが、そこにミツバチが巣をつくっていたのを発見して以来、「いや待て、これを利用すればイチゴ栽培や養蜂も・・・・・・」という謎の作業員の企みによって、水道の確保はしばらく“保留”となってしまった。
(ある晩、風呂からあがった千晶が自分の腕の筋肉が見事についていたことに気づき、人知れず無常の涙を流したことは言うまでもない)
またその年の夏はチャッキーファームにカメムシが異常発生したことも千晶の頭を悩ませた。
ミントはそれほど被害を受けなかったが、丹波黒には時には「びっしり」という表現がふさわしいくらい大量のカメムシがついていることも少なくなかった。はじめは「ぎゃ~!!」と悲鳴を上げていた千晶も、次第にそれどころではなくなるほどこのカメムシ駆除に明け暮れた。
開園当初から謎の作業員との取り決めで、農薬はできるだけ使わない方針でいくとこにしていた。そのため駆除はカミのおばちゃんに教えてもらった「唐辛子スプレー」を採用し、水やりと同時にカメムシにスプレーをかけて撃退していた。唐辛子スプレーをかけた直後はカメムシは退散するのだが、1日もするとまたわらわらとカメムシが戻ってくる。そのため唐辛子スプレー作戦は、こまめな吹きかけを余儀なくされた。その作業はまんべんなくやれたとは言いがたく、夏の終わりには丹波黒をはじめ多くの作物の葉がカメムシに食べられてしまった。このことはチャッキーファームにおける来年の課題として残った。
この頃の千晶には、作物に対する見る目にある変化が起きていた。
実家の食材を買いにスーパーに行ったときのことである。野菜コーナーに並ぶ色あざやかなキャベツや人参を見た瞬間、千晶はぞっとしている自分に気がついた。
(こんなあざやかな色って、自然界じゃ異常なんだ・・・・・・)
どこも虫に食われていない、きれいな色をした野菜の葉。それは裏を返せば、「虫も食わないほどの何かを施された作物」であることを、農業を体験して初めて知った。もちろん毎日手間をかけ、その状態まで仕上げた無農薬野菜も存在する。しかし本来自然に育つ作物はたとえ虫に食われなかったとしても、紫外線の影響などで葉の一部が黒ずんだり色にムラが出るのがふつうなのだ。以前テレビのバラエティ番組でケニア出身の出演者が「日本の野菜はキレイすぎて気味が悪い」と言っていたことを、そのときの千晶はふと思い出した。そのときは「へー、そーなんだー」程度にしか思わなかったが、今はその気持ちがよくわかる。
(たった数か月、畑で作業しただけなのに。私が今まで知らなかったことってまだまだいっぱいあるんだな・・・・・・)
一緒にスーパーに来ていた母はお気楽に「あら!今日はこんなにキレイなトマトが☆」と喜んでいた。千晶はその姿を複雑な心境で眺めていた。
チャッキーファームの丹波黒は苦戦の連続だったが、キヨさんの畑の分は和田山の気候も幸いしてか、深刻な虫の被害にも遭わず順調に育っていった。お盆にさしかかる時期にはすでに、千晶も含め(悔しさは強く残ったものの)「もし商品として出すなら、キヨさんの方だね」というのが全員の見解だった。
お盆を過ぎた頃、千晶は作業と並行してあることを進めていた。
丹波黒の販路開拓である。
丹波黒はブランド作物ではあるが、食材として使うとなると、バジルやミントと比べかなり限定される。チャッキーファームが取り引きしている飲食店はバーがほとんどで、居酒屋や惣菜を扱う店舗はまだ未開拓だった。さらに枝豆として出荷するとなると、その時期も限られるので販路の選定・開拓は容易ではない。
しかし、このときの千晶はもはや一人で悩むようなことはなかった。いろんな人に協力をあおぎ進めていくうちに、チャッキーファームには少しずつ手伝いに来てくれる人が増えてきたからである。
その日も千晶は謎の作業員とキヨさん、そして千晶の会社から手伝いに来てくれた部長とともにお昼を囲みながら丹波黒の販路開拓について相談していた。
「それならイベントに出店するのはどうやろか?」
はじめに切り出したのはキヨさんだった。
「なるほど。それはおもろいな」
謎の作業員も注文した天ぷら定食をほおばりながら賛同する。
「イベントか・・・・・・たしかにまだ丹波黒を食べたことのない人にとって、実際にその場で味を体験できる機会をつくるのはいいですね。農園の話題づくりにもなる」
「あ!それは私も思います!この間はじめて丹波黒を食べたときの感動は、私いまだに忘れられません!でもイベントに出店するのって、けっこう費用とかかかるんじゃないですか?それに収穫の時期がだいたい10月半ばくらいで、その時期に催されるイベントといったらパッと思い浮かばないですよね・・・・・・」
千晶もイベント案にはおおいに賛成だったが、経験がないため見えない不安が大きいのも事実だった。実際、バジルの販路を見つけるときにネットでイベントに関する下調べをしたことがあったが、費用、申請云々の記事が検索に多数ヒットし、以来「自分の手に負えないどでかい取り組み」というマイナスイメージがなんとなくついてしまっていた。
「それについてはひとつ思い当たるものがあってね」
そう言って部長は、ポケットからスマホを取出し何かを検索しはじめた。千晶をはじめ全員視線を部長に集め、言葉の続きを待つ。
「あ、あった、これこれ。マリンイベント。どうでしょうか?」
それはO市の湾岸エリアで行われる、メーカー主催の新作ボート展覧イベントだった。
「会員限定のイベントなんですが、役員がここの会員でしてね。先日、このイベントを10月下旬に催すお誘いのパンフレットが会社宛に届いたんですよ。その中に『今回は秋の味覚というテーマで出店を予定しています』とか、『希望者は××までに申し込みください』云々と書かれていまして。上の者に話を通せば関係者ということで参加は可能です。以前別の企画でウチからイベント出店したことがありますから。いかがでしょう?時期もピッタリだし、いいと思いませんか?」
一同、おお!と喜びの声をあげる。
「こらいい!船持ってる連中いうたらセレブってやつやろ!多少値の張るブランド枝豆を披露するには格好の舞台やないか!」
謎の作業員はやる気満々。千晶も部長の提案に大賛成。キヨさんも大きくうなずく。
「よかった。では早速明日にでもかけあってみます。園長、よろしいですか?」
「はい!よろしくお願いします!!」
(なんか、うまくいきそうな気がする!)
考えてみれば、会社には販売促進をするプロのスタッフもいるし、千晶も現場の経験はある。そのときの千晶は心からこのイベントの成功を確信していた。しかしこの取り組みが後に「販売戦略」という視点で大きな課題を残す結果になることを、このときの千晶は当然知る由もなかった。
9月。その日午前中にチャッキーファームの草刈りを終え小屋で休憩していた千晶に一本の電話がかかった。
電話をかけたのは部長で、着信をとるやいなや「決まったぞ!」とやや興奮ぎみに切り出した。
「ななな、どうしたんですか部長?!」
「いや、ははは、すまない。今先方から連絡があってね、マリンイベントへの出店の申請が通ったんだよ!」
「え~!!!本当ですか?!」
午後の水やり用のポリタンクを抱え農園に戻ってきた謎の作業員が、すっとんきょうな奇声を発した千晶をいぶかしげに眺めた。
「うん、これからまた一層忙しくなるけど、ひとつよろしく頼むよ!」
「はい!ありがとうございます!!」
翌日の夕方、千晶は出社し会社の広告制作課のメンバーと打ち合わせをおこなった。スケジュールとして、9月中に会員向けに郵送されるマリンイベントのDMに同封する丹波黒のフライヤーの制作に約2週間。そして10月下旬にイベントに出展する際の看板やPOPツールの制作に残り1ヶ月弱の納期を確認し協力を要請した。その日は他に丹波黒の特徴や魅力を共有するオリエンテーションもおこなった。
「これ、なんかイベントだけで終わるのもったいないですね~。サイト立ち上げて発信したらいいのに」
制作の若手女性メンバーが、丹波黒とイベントの話を聞いてぽろっと提案した。
「それ!いいですね!でもサイトとかつくるのってけっこう費用かかるんじゃないですか?」
「いや、サーバー次第ではそんなにコストはかからないし、FacebookみたいなSNSと連動したら上手く回せると思いますよ」
システム開発も担当している課長がそう言って、格安のサーバーをレンタルしているところの名前をいくつか挙げた。
「ところで、今回のこの丹波黒ですが、やっぱり高級感を出したい路線ですか?」
企画とコピーライティングを手がけるメンバーも、前のめりに質問してくる。
結局打ち合わせは盛り上がったまま数時間に及び、それでもおさまらず会社近くの居酒屋での「飲ミーティング」にまでもつれこんだ。飲ミーティングが終わるころには全員へべれけになっていたが、制作物のコンセプト、デザイン案、さらにはサイトの立ち上げまでほぼ話を固めることができた。
「チャッキー、じゃゴメンけど来週月曜までに丹波黒の詳細レポート共有してね!」
帰り際、若手女性メンバーとそう約束して別れ、千晶は帰宅の道すがらスマホで丹波黒関連記事のいくつかをブックマークに登録した。
「さーこれから忙しくなるぞー! すでに忙しいけど~!!」
少しひんやりした夏の夜風が、千晶のヒートアップしたテンションをやさしく涼めてくれた。
丹波黒を改めて調べてみると、地域によってさまざまな商品名で呼ばれることに驚く。
京都府の「和知黒」や「新丹波黒」「紫ずきん」もそうだし、兵庫県篠山市の「川北黒大豆」「波部黒」「丹波篠山黒大豆」、それに岡山県勝英地方の「作州黒」と呼ばれる黒大豆も、全て正式な品種名は丹波黒である。
もちろんそれぞれ土壌の質や気候が異なるため、人によっては「全くの別物」と豪語してやまないことも少なくない。それは裏を返せば、地元の愛の表れ―ともとれる。
和田山で栽培される品種は、その中でも(ある意味正統の)「丹波黒」と呼ばれるものだ。千晶はその点に内心、優越感を抱いていた。
(今回自分たちが育てているのは、正真正銘の丹波黒なのよ!ふっふっふ)
このときの千晶は、この事実がいわゆる「丹波黒シェア」の中でのイニシアチブを獲得しているものと思っていた。いろいろある丹波黒の中でも正統な品種を出すのだから、売れないわけがない、と。後にそれが大きな落とし穴であったことを痛感することになるのだが・・・・・・。
出店の準備のほうは着々とは進んでいったが、これがなかなか苦労した。
というのも、先日部長から申請許可が降りた連絡を受けた際に、ひとつ「お願い」を付け加えられていたのだ。
「ところで今回の出店について条件というか、ひとつお願いがあってね。ウチの役員のお知り合いが経営されている洋菓子店と共同出店してほしんだ」
「え?あ、はい。それは全然かまわないですけど」
「うん。それでね、そこの奥さんがお店を切り盛りしているんだが、なにぶん先方もマリンイベントへの出店は初めてでね。ちょっと奥さんに会って、出店の打ち合わせをしてほしいんだ」
そのお店―『まるぐりっとAmis』は会社から歩いて10分ほど、O市の中心街であるアーケードの一角に建つ洋菓子店であった。千晶はそこの看板スイーツ「ヌージュ・ポアン」が大好物で、奥さんの裕美子さんとも仲良しだった。千晶の会社の役員と知り合いだったことは初耳だったが、共同出店することにはなんの問題もない。むしろ裕美子さんと一緒に出店できることになり、千晶にしてみれば嬉しいぐらいである。
しかしこの打ち合わせが難航した。裕美子さんのほうは忙しい仕事の合間を縫って時間をつくってくれるのだが、千晶の作業がキャパオーバーぎみで時間がうまくつくれず、2度延期させてしまった。さすがにこれ以上はまずいと思ったところ、たまたま『まるぐりっとAmis』のマリンイベント用フライヤーを千晶の会社でデザインすることになったことを制作課のコピーライターから聞き、すがるような思いで「ゴベン~!コッチの打ち合わせもやってきてボジイデズ~!」と涙ながらに懇願した。その様子があまりに不憫だったため、コピーライターは出店の打ち合わせも引き受けてくれた。こうして、途中千晶のオーバーヒートが発生しながらも、準備はなんとか滞りなく進んだ。
10月。マリンイベントまで残すところ数週間。
この日、千晶は丹波黒の最終味見をおこなった。
たわわに実った丹波黒の莢は、千晶がはじめて見たときと同じ立派なうぶ毛をつけていた。半分ほどは正月の黒豆用に残し、残りを今回のイベント用に、枝豆として出荷する。さっそくチャッキーファームとキヨさんの畑の分、両方の枝豆を茹で味を確かめてみた。
チャッキーファームで栽培した方は―予想はしていたが―なんとなく味が物足りない。枝豆としておいしいことはおいしいが、少し味が「古い」気もする。
「やっぱりなぁ。これとちゃうんよなぁ」
謎の作業員も、予想していたとはいえがっくりと肩を落とす。
「いやいや、これで畑の様子もだいぶわかったし、ま、よしとしましょ」
カミのおじちゃんとキヨさんはむしろ前向きな様子で、千晶と謎の作業員を励ます。
「でも、こうしてみるとキヨさんの畑のは全然違いますね。ホント、おいしいです」
確かに、キヨさんの畑で育てた丹波黒は以前千晶が食べたものより数段コクがましている。これが丹波黒本来の味かー。千晶は改めて、丹波黒の味の奥深さに驚いた。あと2週間ほどすると、豆にはより養分が行き渡り一層コクが増すという。
「イベントのは決まりやな」謎の作業員が手ごたえを確かめるようにうなずく。
こうして、出荷する枝豆は算段がついた。
看板やPOPツールも工程は最終段階に入っていた。
全体のトーンは丹波黒であることと高級感を出すため「黒」で統一。価格帯はネット通販などでリサーチした結果、2キログラム・枝付きで平均3,000円が相場だったため、それより少し価格を下げ1.5キログラム・枝付きで1,500円に設定した。サイトの方も最終確認が終わり、Facebookページと連動して一足先に公開した。商品のロゴなどはこれらと連動して統一したものをつくってもらった。
制作最終日は千晶もパネルボードへの貼り付けを手伝い、途中みんなで吉野家の牛丼を食べたりして、完成したのは深夜の1時過ぎだった。
「みんな、ありがとうございます!もーこうなったら丹波黒バンバン売ってきますよ!」
「よろしく!僕らはその日打ち合わせが入っているから手伝えないけど、早めに切り上げられたら応援に行くから!」
準備は整った。あとは丹波黒を収穫し、本番を迎えるのみだ。
「よ~し!待ってろよマリンイベント!」
千晶とマリンイベントの激闘の2日間は、刻一刻と迫っていた。
(後半へつづく)